
これを書いている現在(令和3年12月24日)はクリスマス・イヴである。
クリスマスはキリスト教のイベントだが、現代社会では宗教に関係なく、皆で楽しむ日として認識されている。
ところが、今日はクリスマスと言っている奴等が正月に何をするか―――?
葬式を執り行う時に何を言い出すか。
本記事では日本人の宗教観がいかにいい加減かを述べていくつもりである。
★その時々で信じる神が変わる
日本人に多いのが「日頃、無宗教を唱えておきながらイベントの時だけ信心深くなる奴」である。
これの分かりやすい例が「無神論者を自称する奴等が結婚式を教会で挙げ、葬式の時に僧侶を呼び、クリスマスやハロウィンを楽しんでおきながら正月に初詣に行く」というものだ。
無論、占いや風水にはまる奴も同じ穴の狢といえよう。
こんないい加減な宗教観を持っているのは世界で日本だけだという。
★外国では信仰が当たり前
信仰心は己の生き様や信念であり、これに一貫性がないのは「他人に振り回されやすい日本人」ならではの姿だ。
海外では信仰心を保つことが当然と考えられており、日本人の「無宗教でありながら多神教」という姿勢は奇異なものとして見られるという。
皆と同じでなければならない、という普通を強制する教育を受けている奴等がこういう時だけ普通ではないのも奇妙な点である。

★この問題を神仏の視点で考える
もし、俺が神の立場なら、上記のような奴等は一人残らず天罰である。
特に許しがたいのは「賽銭箱に、はした金しか入れないのに、高額当選を願う奴」である。
このように神から見た日本人は地獄に堕ちて当然なのだ。
★終わりに
罰当たりが跳梁跋扈している。
日本は一神教ではないが、信念なき宗教観というものは生きるための信条の問題の観点から決して良いとはいえない。
これからダイバーシティの時代になるという時に、安定しない考え方では、価値観の多様性についていくことができないであろう。
馬鹿にされて恥をかく時が必ず来るのだ。
その時になってから「何がいかんというのか」と言ったところで、矛盾したことを正当化する人種と蔑視されるのは目に見えており、同じ人間として見られないだろう。
日本よ、世界に笑われないうちに考え方を改めたらどうだ。

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